「ハレ」と「ケ」
日本には「ハレ」と「ケ」という言い方があります。ハレを特別な日の出来事とし、ケは日常の出来事を指します。ケがあるからハレを楽しみにするのですが、毎日がハレの日になるのが現代人の暮らしなのかもしれません。しかし、ケにこそ本当の暮らしの深みがあるようにも思えるのです。
日常の風景が街をつくる
日本の地方のどこに行っても、朝市に遭遇します。今は観光化されたものもありますが、かつては生活の一部だったのです。そこでは、朝採れた野菜や釣った魚を売っていました。保存がきかなかった時代には、新鮮な食材はこうして各家々にたどりついたのです。
朝市は、必要なものとして生まれた日常の風景ですが、活気ある掛け声の中に、人々の暮らしぶりも垣間見られます。街のにぎわいが目に見えるのは楽しいものです。スーパーの中のショーケースには、人々の息遣いを見ることはできません。眺めて歩き、話して、こういう日常の行為が、風景をつくっているのだと思えてなりません。
日常に使うもの
日本では、ハレの日に使うものが発達してきました。きらびやかなものや、豪華なものは沢山あります。しかし一方、毎日使うものや、ケに使うものには気をつかってこなかった節もあります。実は暮らしの豊かさというのは、この日常の暮らしぶりにあるような気がするのです。
例えば、家事で使う道具や器にしても、丈夫で洗練されたもの、長い歴史の中で人々に愛されてきたものにこそ、美学が宿っているのです。かつて日本でもこうした日用の美を唱えた民芸運動がありました。日常で使うものが美しいと、暮らしは美しく、そして豊かに思えます。日々の食事の器が整っていることで、食事も楽しくなるものです。
日常には習慣と練習が必要
日常のもう一つの視点は、合理化でなく習慣です。朝起きたら掃除をする、ご飯をつくる、片付ける、洗濯をする等々。毎日するから上手くなり、また早くできるようになるのです。さらに工夫も生まれます。合理化を目指すのでなく、結果的に合理的になっていくのですが、そのあたりにも日常を捉えるヒントがありそうです。
家事について家事研究家の辰巳渚さんが、「大事なことは、息をするように家事をすることです」と言いました。毎日必ずやっていくこと、大変とか簡単とかそういう視点ではなく、息をするように、無意識に生きるために必要なことだというのです。
まちには「ハレ」と「ケ」の両方が必要
まちの中でハレといえば祭りです。かつては季節ごとに、農業の節目にあったものです。しかしその間のケの時間にも、まちは動いています。その日常の営みにこそ、まちの魅力があるのです。
都市の活性化ということを考える時に、我々はついついこのハレのほうに目を向けてしまいがちですが、反対側のケである日常に、もっと目を向けていくことが大事なのではないかと思います。
みなさんはどのように思いますか。また、みなさんの日常はどのようなものですか。ご意見お寄せください。
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